金文吉書評

　近代アジア史において、日本と朝鮮は切っても切れない関係にある。ともに一九世紀のいわゆる「西洋の衝撃」によって開国させられ、近代化の道をある意味強制的に歩まされた、という共通点があり、とりあえず近代化の「優等生」であった日本は朝鮮をはじめアジア地域に植民地を持つ「帝国」となり、多大な影響を与えた。

　開化党（別名独立党）とは、朝鮮の近代化を推し進めるための政治改革をするべきと論じた官僚の一派であり（これに敵対したのが朱子学を第一とする攘夷的な思想を持っていた衛正斥邪派、事大党あるいは守旧派といわれた保守的な一派である。対外的には親清的）、その中でも漸次改革を進めるべしと唱えた「穏健派」と、日本の明治維新に範を採りドラスティックな改革を構想した「急進派」の二派に大きく別れていた。この「急進派」の開化党員は、当然の事ながら日本の思想家たちの影響を大きく受け、とりわけリーダー格であった金玉均は、福沢諭吉との交流で知られている。

　さて、この金玉均が中心となって、急進派開化党員のクーデターが一八八四年一二月に起きた。これを甲申政変と呼ぶが、この事件を少し詳しく見てみよう。当時、朝鮮は対内的にも対外的にも問題を抱えていたが、それはまとめるなら、王妃の一族（閔氏）が国政を壟断していたことと、秕政による財政危機と、華夷秩序の崩壊による国際状況の認識枠組みの変化であったと言えよう（日本は一八七六年に朝鮮を開国させている。この日朝修好条規の成立こそが東アジアの冊封体制の崩壊の第一歩であった）。急進派のメンバーは、一挙に守旧派から政権を奪取するべく日本公使竹添進一郎の協力を求め、金玉均、朴泳孝らは士官学生や壮士を率い、国王高宗と王妃を守旧派から隔離し、新政府の樹立を宣言し新しい政綱を発表したが、当時朝鮮に駐在していた袁世凱が清軍を率いて武力介入し、クーデターは失敗に終わり、文字通り三日天下に終わった。首謀者たちは多く日本やアメリカに亡命し、もしくは逮捕されて処刑された。福沢諭吉はこの企てが失敗に終わったことから朝鮮の近代化に対して期待しなくなり、例の「脱亜論」を執筆したと言われている。

　さて、開化党急進派の主流は、著者の金文吉氏によれば、「朝鮮開化党の宗教理念を考えるならば、国を開化するためには、西欧文明を導入して近代国家を形成しなければならないという動機が強く、当時、西欧文明の主流であったキリスト教を、あくまでも開化のための「手段」としてとらえて、実際の信仰心を持つには至らなかった」（一五頁）というが、しかし全員がそうであったのではなく、例えば、急進派の中でも「非武力主義」の中心人物である兪吉濬や安宗洙、李樹廷などは、開化方法と宗教は密接な関係があると考えていたという（評者なりに言い換えれば、彼らはキリスト教を「手段」且つ「目的」としていた一群と言えるかと思う）。そしてこの安宗洙が津田仙と関係の深かった人物なのである。一八八一年、日本訪問団である紳士遊覧団の随行員として来日した際、安宗洙は当時日本農学界の代表的人物であった津田と会い、新しい農学を学び、朝鮮開化期における有力な農学者となった。彼の著書である『農政新編』を見ると、津田からの深い影響が伺える。一方の李樹廷も一八八二年に来日した官僚で、その時安宗洙の紹介で津田と会い、農学のみならず、キリスト教信仰でも影響を受け、東京の露月町教会で洗礼を受けクリスチャンとなった。彼は朝鮮キリスト教史の中でもプロテスタントの初期受洗者である。李樹廷は当時日本に滞在中であった宣教師ルミス(HenryLoomis)とともに聖書の朝鮮語訳も成し遂げている。

　第二章「津田仙の人物とその活動」においては、津田仙の生涯が簡略にまとめられている。津田仙（一八三七～一九〇八）は、日本最初の西洋農学の紹介者にしてメソジスト派のクリスチャンでもあった人物である。次女の梅子（津田塾創設者）を幼少時にアメリカに留学させたことでも有名である。当初蘭学を修めたが、後に英語も習得し、幕府の外国奉行通弁役に就任した。その後一八六七年の幕府のアメリカ派遣の一行に加わり、六ヶ月間滞在した。帰国後、戊辰戦争に参加したが敗走し、公職を離れて、外国人居留地にあった築地ホテルに勤め、外国人の食事に供する野菜を栽培し始めたという。津田仙は幕府の公職から転落し、新政府にもなかなか居場所を探せなかったことは、「仙をして、近代的自我意識の唱導者あるいは明治政府の専制的性格に対する市民的自由の主唱者として活躍させるきっかけとなった」（五二頁）という。野菜栽培の成功が評判となり、津田は一八六九年に北海道開拓使嘱託となった。その後一八七三年、ウィーンで行われた万国博覧会に、津田仙は随員として参加し、先進諸国の農業技術について学ぶきっかけを得た。特にオーストリアの農学者ホーイブレンクの知遇を得て、彼の農法を手に帰国した。帰国後、この時のノートを本にまとめたのが『農業三事』である。この書は数万部出版されたという。このタイトルは、ホーイブレンクの書名に由来する。津田は、自らの農学理念を教えるべく「学農社農学校」を一八七六年に創設した。この学校は私立の農学校の先駆けであり、公私立の農学校の中でも学生も最も多い学校の一つであった。

　なお、津田はこの万博において、キリスト教そのものへの関心を深めた。特に当時の欧米強国がプロテスタントを主とする国家であったことから、プロテスタントに親近感を持ったと回想している。津田の帰国のほぼ同時期にキリスト教が解禁となり、アメリカのメソジスト宣教師であったソーパーによって受洗した。ソーパーの初の信者が津田一家であった。津田は農業教育においてもキリスト教の信仰を本に精神的にも近代化することを目指したと評せるであろう。それは彼自身の言葉を借りれば「農業の隆盛とキリスト教の真誠とを以て宇内に有名なる北米合衆国は其富其道徳天下に比なし」とアメリカを評価していることからも窺えよう。なお津田は禁酒や禁煙運動を進めたり、社会改良運動にもかかわった。このような彼の活動の背後には、啓蒙主義やアメリカのキリスト教の風潮というだけでなく、優れた農作物の摂取によって日本人の体質・体格を改良しようとする思潮があったことも推測される。また、「明六社」での活動や、女子教育への参画（青山学院、普連土学園など）、慈善事業の活躍も特筆されるべきであろう。

　さて、第三章「津田仙と朝鮮農業」では、津田の農学と朝鮮との直接的な関係が掘り起こされている。津田が朝鮮の農業問題に関心を寄せるようになったのは、一八八一年の前述の安宗洙との出会いからであった。津田は遠来の客である安宗洙を快く迎え、『農業三事』を贈呈した。彼は帰国後、これを元にして『農政新編』を発刊した。また、安宗洙は津田宅に訪問した際、津田の筆になる漢訳新約聖書の一節に心惹かれたとも言われている。彼が津田の『農業三事』を翻案したのは、単に新しい農業技術というだけでなく、農民一人一人を啓蒙・開化させるという姿勢が「下からの開化」という彼自身の考えに適っていたからだろう（彼は「上からの改革」を強行に推し進めようとした甲申政変には参加しなかった）。また安宗洙がキリスト教と新農法をともに浸透させる、という考えも津田から受け入れていたことも重要であろう。

　もう一つ、津田と朝鮮との関わりで注目すべきは朝鮮「農務社」である。これは仁川(インチョン)多所面松林里にあった農業改良主義団体で、先行研究の全くない部分である。農務社そのものの設立の経緯は不明な点が多いが、津田自身も朝鮮に渡り、この農務社の運動を指導したことが記録から読み取れる。つまり津田はその書物だけでなく、「新農法」を直接朝鮮人に指導したということになる。

　第四章「津田仙と朝鮮キリスト教」は、安宗洙の紹介で津田と出会い、クリスチャンになった李樹廷を中心に述べられている。李樹廷は一八八二年の第二次「紳士遊覧団」の構成メンバーとして来日したが、翌年に朝鮮人としては初めて日本で洗礼を受けた。その後彼は一八八四年から四年間、東京大学付属専修学校の外国語教師として朝鮮語を講じた。しかし彼は帰国後守旧派の手によって殺害されてしまった。それは、彼が大井憲太郎たちの自由党と接触したとの嫌疑がかかったからである。

　この章の最後に李樹廷と「神代文字」との関係が簡単に述べられている。神代文字とは、漢字伝来以前に日本に存在したとされる文字であるが、当然偽物であり、その中にはハングルをモデルに創られたと思しきものさえある。当時のメソジスト派の牧師の中に、神代文字に心酔する者がいて、そのものが李樹廷に見せたというエピソードがごく簡単に紹介されている。

　まず第一章で甲申政変とキリスト教の関係について言及が多少あるが、開化派官僚の内面にまで踏み込んで掘り下げた考察は残念ながらなされていない。折角彼らの宣教師宛の手紙などの一次史料を駆使しての論考であるだけに惜しまれるところである。なお「朝鮮開化党の源流は宗教の思想にあり、分派は、その後の論争から生じたと考えることができる」（一五頁）とあるが、この「宗教」が指す内実がよくわからない。キリスト教と一言で言えないのは当然であるし、そもそも開化党の思想的源流は、一八世紀以来の実学の伝統であり、それに清の洋務運動、日本の明治維新の刺激を受けて形成されたことはいわば朝鮮思想史の常識のうちであろう。この書き方は少なくともmisleadingである。

　四章において、「李樹廷はその真理を深く悟り、朝鮮にキリスト教を布教して長く続いた封建社会を崩し、国民を開化する道を模索した。これは津田仙の影響下で、農業をもって外面的開化を目指した安宗洙とは相異なるものであり、キリスト教をもって開化する、すなわち、内面的開化であった」（一二三頁）と著者はまとめているが、少し単純化しすぎた見解ではなかろうか。よしんば、両者がそのような違いがあるとしても、その李樹廷の信じたキリスト教の内実こそが問題であろう。本書では、随所に「キリスト教（者）性善説」とでもいうような筆致がなされており、歴史の陰影を無くしているような印象を受けた。篤実なクリスチャンで愛国者でもあった李樹廷のような人物が、大井憲太郎のような人物と関わりを持ってしまった「皮肉」とでもいうべき相をもっと見るべきではなかろうか。

　まず、福沢諭吉と慶應義塾の思想傾向を「三田思想（別名慶應義塾思想）」と呼んでいるが（二〇頁）、評者は寡聞にしてこのような呼び方は知らない。韓国ではそう呼ぶのかも知れないが、少なくとも日本において「三田思想」という言葉は人口に膾炙したものではないだろう。その思想的特徴として「対外的には、朝鮮の領土を手に入れ」（同上）などともあるが、このような書き方は征韓論と福沢の思想を同一視するような印象を受ける。両者はこのように簡単に同一視されるものではないだろう。これは福沢の思想の多面性を等閑視している評価のように思えた。

　李樹廷が殺害された原因を、大井憲太郎たちとの関係に求め、そのことを説明している箇所で「このように李樹廷が日本滞留中に自由民権運動家と深く関係し朝鮮にキリスト教を布教すると同時に日本自由党を創設しようとしたことは事実であったと私は推測する」（一三八頁）とあるが、「日本自由党」とは何だろうか。